昭和51年08月14日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心するれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

 目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多いと、その目に見えぬ大きなおかげが、目に見えない部分が分かるようになるために、そこに目に見えないところを大事にしなければいけません。あるやら無いやら分からない目には見えない、いわゆる心をね心を大事にしてまいりますと、目に見えない今迄気が付かなかったおかげが、大きくこうクローズアップされてくる様に。
 もう実感としてはぁあれもおかげであったと分かる様になるです。目に見えるおかげというのは氷山の一角、ですから目に見えない所のおかげに心の底から有り難いとお礼が申し上げれる様なったらね。有り難いと思う心がおかげと仰るのだから、その有り難い面が大きく有り難いと重感出来る様になりゃ、おかげも又大きいと言う事が分かるですね。だから目に見えないところを大事にしなければいけません。
 目に見えないと言う事は、なら私共が魂の世界に、誰でも一辺は入っていかなければいけませんがね、この魂の世界もお互いに分からないところです。まぁ親先祖の霊神様などを大事にすると言う事は、目に見えない所をいよいよ大事にする事でしょうね。心もそうです目に見えないところ。ご先祖の御霊様これも目に見えないところ。不思議に例えばあのう霊神様のお祭りなんかを致しますとね、もう心から致しますと確かにおかげを受けるですね、今度は目に見えるおかげが現れて来るです。
 又自分の心に喜びがこう返って来ると言うでしょうかね、御霊の喜びがそのままこちらへ伝わって来る様に、心の中に喜びが広がってきます。どうでも目に見えない部分のおかげを、おかげと分からして貰う信心、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いと仰せられるのですから。それを分からして頂いてお礼を申し上げて、初めて本当な事だと言う事なります。おかげ受けておっても目に見えないから分からない。分からないから却って反対に不平不足どもいうておると言う事になるのです。
 それでは神様に対してご無礼、だから目に見えないおかげを分からして頂くために、目に見えない所を大事にする、心をいよいよ大事にする。お先祖をいよいよ大事にする。今日はそこの野口さんの三年の式年祭がございます。若先生がまいります予定にしとりますが、もう前々から願いに願って、まぁ有り難いお霊祭が仕えられます様にという願いがあっております。それで今朝から私は野口さんんの霊神様に、今日はこうこうだというご挨拶をさせて頂きましたら、これは霊様の願いでしょうかね。
 ご心眼に頂くのが芋、里芋の芽が出ている。それがちょうど芽がこう曲がっていてそういい里芋ではあるけれども、あのちょうど鶴、鶴のねいうならば、こう巣籠もりをしておる様な感じのお芋なんです。私は本当にそれを頂いて ま実感させて頂いた事ですけれども、芋のお知らせというのはこれは繁盛ですね。芋というものは沢山このう芽が出るという繁盛お知らせです。
 昨日の十三日会に私が申しましたように、本当のおかげというのはね、やはり地獄の底の地獄の釜を踏み抜くほどしの信心させて頂く、その向こうに極楽があるんだと有り難い。あぁ難儀のおかげで信心がでけますというておるけれども、本当に有り難いというのは、もう本当にその難儀を拝み抜いていく、喜びが沸いてくるんだという。私の体験を聞いて頂いたんですけれども、様々な難儀ないわば問題、野口さんの場合なんかも、やはりあぁした不慮の死ですね。
 いわゆる交通事故で亡くなられた。あっという間に亡くなられたんですから。ですからそれは分かりませんけれども、霊は霊なりのいうならば働きがあっておりましょうけれども、それを受け止めるものがなからにゃいけない。焼野のきびす夜のたび親はなくとも子は育つと、いわば信じておられる霊様だと私は思うです。自分はこうやって霊の世界に入ったけれども。後々は必ず立つという、いうならばそういう信念の人でしたから、そうであろうと思うのです。
 今日のお知らせを頂いてもね、芋の芽がぞっこり出て後は大繁盛のおかげを頂く、それがこう芋が芋の芽がこう鶴の首の様になってね。ちょうど鶴の巣籠もりをしておる様な感じから、私がまぁ私が感じた事なんです。そこでならこの芋がね、そこにあるだけではいかんのです。これにはやっぱり土が被せられていかなければ土が被せられて始めて、いうならば沢山の芽が出れば、又沢山の芋が出ける事になるのです。
 だから野口さんが遺族の方達に願い求めておられる、子供達に求めておられるのは、その土を被せてくれよと言う事だと思うのです。土の信心をしてくれと言う事だと思うんです。土の信心というのはそれこそ大地の信心、黙って受けて受けて受け抜くと言った様な信心、黙って治めるという信心、それを神様を信じてのそういう土の様な信心が、子供達にでけるならば、もういよいよその親の大きな芋の種、信心の種というものがあるのですから、もうぞっくりいうならば芽が出る様な繁盛のおかげになるに違いはないから。
 どうか土の信心をしてくれよという、私は霊が遺族に対する願いの様なものであったと思います。霊祭これは目に見えないところのものですけれども、やはり目には見えない親先祖を大事にしなかったら繁盛致しません。その繁盛は例え繁盛しておる様であっても、本当の繁盛にはなりません。根を肥やさずして枝葉の栄えたためしがない。目に見えないもの、それはいうならば親先祖、目には見えないものそれは私共の心、だから心をいよいよ大事にすると言う事は、心をいよいよ太く豊かに。
 昨日の朝のご理解を頂きますと護岸工事と頂いた。これは耐えると言う事辛抱と言う事、辛抱心とこう申します辛抱心です。心が健全であればいよいよ人が耐えられないところであっても、じっと耐える事がでけます。そういう辛抱しそしていよいよ豊かに大きく太くと言う訳です。そこに始めて大きなおかげの約束がでける訳です。心が小さい心が豊かではない辛抱力はない、それで若しおかげがあるとしてもです、そういうおかげはそれこそ、うたかたの様なものです。それはおかげがおかげになりません。
 同時に私は先ずはです、だからそういう信心をさして頂くと言う事は、神様を信ずると言う事から、心も大事にしなければならない、先祖も大事にしなければならない、自分の心のいよいよ豊かになって行く事も、辛抱心を作る事もしなければならないという修業の心も、神様を分かり神様を信ずるからでけるのです。そこで今度は目に見えるおかげを頂かなきゃならんと言う事になります。信心もでけませんのにはぁこの様なおかげを頂いてというおかげなんです。
 昨日十三日会で伊万里の津上さんが発表しておられました。それはあのうお百姓をなさっておられます奥さんが、合楽食堂合楽という食堂をなさっておられます。もう一事が万事にご神意を頂いて、神様のおかげでやらして頂いてたおられる。合楽食堂合楽という「あいらく」というひらがなでの、もうしんからあの親先生まかせの一家です。それが私のおかげは本当に小さい小さいおかげだけれども、まぁ小さいおかげだけれどもと、連発しながら発表されたんですけれども。
 そのう天地が自由になると言う事、田植えの時の話しをしておられました。肥料を施さなければならんのに雨が降る。それでは肥料がまぁ一日延ばさなきゃならんと言う事であった。ところがあのういよいよ肥料ふらんならんならん段になったら、お湿りがやんで肥料をふり終わってしもうたら又、ザアーといわゆる火のつく雨であったというのです。まぁ私のおかげはこぅまいおかげですけれどもと言う訳なんです。先月も月末にどうしても金がチョットばかり足らんと思いよりました。
 一生懸命お願いさして頂きよりましたら、不思議な不思議なお繰り合わせを頂いて。まぁ丁度払うだけのお繰り合わせを頂きましたという話を、もう本当にこぅまいおかげですけどもというて、その発表しとられました。末永先生が司会をしとりましたから、津上さんあなたが細い細いと言よるけれども、それは大変な偉大なおかげですよと、とてもこれは合楽ならでは体験できないおかげですよと。天地が自由になる程しの金銭の必要な時に必要な金が頂けるてんなんてん、とても他所では体験する事はでけませんよと。
 とても大変なおかげですよというて、まぁ司会がいうておりました。私もそう感じました。そこに結局私共が頂いておるおかげを、ほんなこん位なおかげ、発表するとも恥ずかしか位なおかげ、という風なですね頂き方では、何時までも大きなおかげになりませんね。本当にこの神様ちゃたいした神様じゃある。本当に天地を自由にして下さる程しのおかげを下さる。必要な時には必要に神様が間に合わせて下さる、なんと素晴らしい尊い神様であろうかと思うから。
 有り難い心が大きくなるから、その有り難い心で次の行動が出けるから、又おかげを頂く。昨日は丁度十三日会を終わらせて頂きましたら、こんなに部厚い手紙が参りました。中から色々手紙やら、お初穂やら貯金通帳と印が出てきました、宮崎の綱さんからです。この頃全然取引の無い所に、親先生のお許しを頂いて○○銀行にやらせて頂いた。そしてそのご神意書私からの手紙を持っていって支店長に見せられた。もう本当に嘘の様な話ですけれども、やっぱそれを実行された。
 そしたら合楽の神様ちゃ大変な神様ですねと支店長が言うた。今迄綱さんあなたが見えるまで、この電算機が止まってしもとった所が、あなたが見えると同時に電算機が動き出した。もうそれこそ一も二もなしに金額は四百万円でしたけれども、とても私は不思議で不思議でたまらんですね。それはやっぱり聞けば聞く程、銀行と言う所は預けて貰うだけじゃない、貸すとが大体本職ですからどうぞ借って下さい。そして使うて下さい本当に使うてお金が生きてこなければ、といって支店長からそう言われた。
 そして今度合楽にお参りされる時には通知をして下さい、そう言う風に私の銀行を指名して頂いたということは、本当に有り難い神様です。私の銀行としてお供えさして頂くから、というて先月のお参りの時に、銀行からのお初穂をことづかって来ました、というほどしのおかげを頂いとる。その前にはもう税金どうにもでけない税金が、本当にもう紙一重でですね。ハアーここにこういう用紙が一枚あったら、私がそれは納めんでよかごとしてあげるのに、も時間が無いからだめですねと言うておるところに。
 その鞄を下げてやってきた人がですね。あぁその用紙なら私が持っておりますちいうて出してくれた、無税になった。もうそれだけでもあの差し押さえされるごとなっとった、もうそりゃもう本当に嘘の様な話です。それが何時も手紙で来るけれども、あんまりその手紙にですね、昨日の手紙もです。ここまで書いて感涙にむせんでおりますと言う様な手紙なんです。だから沢山書いてあるから私が頭が悪いもんだから分らん、意味が分らんのです何を書いてあるのか。
 ただあり難い勿体無いばっかり書いてあるからそれから、何時も末永先生に読んでもらうんです、けども綱さんの手紙だけは。そして昨日何ちいうてきとるとのち、言うてから読んで貰ったら、簡単に説明して貰いました。先日から大きな魚市場の魚の問屋さんです。小売り卸をなさっておられる。それが去年はもういよいよ倒産という時に寸前に、ここに話を聞いて夫婦で参って来たのが始まりです。そして何かとにかく万事万端にご都合お繰り合わせを頂いて、そして今日まで続いておるんですけども。
 この頃からその金が足りませんでしたから、だから魚市場の株を沢山持っておられたのを売りたいという。だからそれは売りなさいと言うていっとったら、それを売ったところが、その魚市場と宮崎の何とか食料市場か、食料市場が合併する事になった。だから宮崎さんの持っておられた株が、なからなければ合併でけんち言う事になった。そこで又電話がかかってきて、こう言う訳ですから。そんなら前にいうた人に相談して買い戻しなさい。親先生は買い戻しなさいち簡単に言いなさるばってん。
 向こうが買うたもの、ゆずったものをその前後の事は前々知った人ですから、その受けるはずが無い訳です。ところがそれがスムーズに向こうが返してくれたという。売ったときにその金で用が出けたんです。そして今度はどうでもこうでもいるという時には、それを又返してくれたんです。そしてその魚市場に行ったら、魚市場でも大変な喜びで、十何倍十二倍になった。その差が二百八十何万円だった。もうそれこそ市場が喜ぶその、そのために合併がでける。でけんというのが。
 その前には大変な問題がありましてね合併までに、それがお取次を頂いてお願いをさせて頂いて、そこまでの運びになったんです。それで今度は綱さんその十何倍というのが、その魚市場の社長さんですか、専務取締役の人がです、これは大体何十倍で買い取ると言う事はでけんち、だからこれは別な普通あの市場の金ではない。金で買わせて貰うから、これはあんたが預金をされるでん、あんたの名前で預金してもろうちゃ困るからという内緒の金じゃった。
 だから今度はそのこの頃四百万貸して貰った銀行に相談に行った。そしたら支店長も大変も大変良い人ちいうか、それから信用してしまわれた分けでしょうね。も何かと全部してくれてハンコまで、その銀行にある印で何からかにまでしてくれて、通帳に二百万円の金を預金される事になった。それで銀行も大変喜ばれる。まぁその辺のところがね 何ともかんともいえんわけですけれども、そこで色々考えたのに、これはお供えをさせて頂いて親先生にお使い頂くのが一番良いというので送って来とるわけです。
 ところがねここで又親先生に使って頂くと言う事が起こった。ここではちょうどこの屋根が千何百万か払うとるのです。けどもそのこの大体済んでしもうてから払う約束になっとったそうです。ところが盆でどうでもお金が足らんからというので、昨日有るだけでもというので、ちょうど帳尻百万有りましたから、百万払うとった。そしたら又夕方やってきてから、どうしても三百万なからにゃやっていけんといいう訳です。それでちょうど秋永先生が皆んな来てましたから。
 ところが払って良いかまぁだその約束じゃないもんですから、そこえそのもう銀行には何十万しか残ってない分けです。そこえ綱さんの二百八十何万が送って来た分けです。だから二百八十万と家に有る金が三百万になるから、私がそれは払うてもよいぞ、こういう働きがあってるからと、私が言うて払う事に致しました。使うて頂きたいだから昨日神様がそれを使いなさった。向こうの方もそういうおかげになって来ているんです。そして私はこれは神様がお借りした積りで使いなさいちいって送り返えさせました。
 通帳と判をね、しかしやっぱおかげを受ける人は違うでしょうが何処とはなしに。ちょこっとばっかり、それからお供えするちゃないじゃん。こういう様な例えばおかげは、これはどんなに馬鹿でもちょいでも、これは合楽の金光様のおかげと、いわにゃおられんわけです。今ならその綱さんの三つの税金の事、この頃金を借りる時の事、今度の事なんかの場合、これは目に見えるおかげを、もう目の見えるだんに見せて下さるおかげです。そういうおかげも頂かなければです。
目に見えない所ばっかり分かれ分かれちいうたっちゃ、実感としておかげと頂ききらんです。ところがんなら又目に見えるおかげだけ、奇跡的なそうしたおかげだけをです。おかげおかげといウとるだけではおかげにならんです。それこそ目に見えないところを大事にしていくと言う事と相まっていかなければ、心をいよいよ大事にしていく、いよいよ目に見えない親先祖を大事にしていく。そこからです目に見えないおかげが段々分かって来る様にもなり、又いよいよの時には、お取次を頂いてそうした本当とは思えない様な、おかげを受け頂き現わす事がでける神様。
 ためにはどうしても目に見えないところの部分、目に見えないところの方が多いと言われる、おかげを気づかしてもらう、分からしてもらうおかげを頂かなければならん。頂いたおかげでもです、それこそ天地が自由になる程しのおかげを頂かしてもろうても、本当にこまぁいおかげで恥ずかしかごたるおかげ、と言うとったっちゃ何時まぁでんおかげにならん。針小棒大と言う事を申しますけども、どんなに私共がおかげ頂いた、おかげ頂いた親先生がちった針小棒大だという人がありました。
 何時かけれども私は針の様な事を棒の様に、言いよる様にあるけれどもまぁだ、まぁだ目に見えない所をいうなら、もっともっと大きく言わなきゃ相済まんほどしに実感しとります。だから私の場合おかげが大きいんです。だからおかげ話をするでもです、本当にあのこん位なおかげといわずに、その根のある所その神様の働きの面をです、いよいよ思わしてもらい分からしてもろうて、小さいおかげ言うならば十を頂いたおかげは、二十も頂いた様な喜びを持ってすれば、次には二十のおかげと仰る。
 二十のおかげを頂いたと思う時には、五十も頂いた様に思えば、次には五十のおかげと言われるのですから。喜びというものは大きくしていかにゃいけません。形に見えるところのおかげも、又目に見えないところのおかげ、それにはひとつ私共も本気で野口さんの霊のそれじゃないけれども、野口さんがいうならばです、自分の子供達にいい持たせてくれと言う事であろうけれども、これは合楽の信奉者、信奉者皆んなにも野口さんが、そういうておられるというてもよい様なもんです。
 土の信心がでけなければ、折角繁盛の種をもろうても枯れてしまいます。これに土をかけていく様な信心をさせて頂いて、いよいよ大繁盛のおかげにつながるのですからね。どうでも今日は目に見えないおかげの事をです、私は目に見えない心、目に見えない親先祖、そういう目に見えないものを、大切にしなければ目に見える本当のおかげは、受けられないと言った様な事を聞いて頂いたですね。
   どうぞ。